「メシアへの信仰」
生まれた時から視力がない人と出会った弟子たちがイエス様に質問します。この人が視力がないのは、本人の罪の報いなのかそれとも両親の罪の報いですか、と。
イエス様はこの人が見えるように癒やされました。弟子の質問には、本人でも両親の罪の報いではないと答えられました。
9章13〜41節には癒やされたあとのなんやかんやが書かれていますが、私は9章2節の弟子たちの質問に核心があると受け止めました。罪が報いかどうかは原因を突き止めようとする質問であると同時に責任を持つ人が誰なのかを問うていると思います。
視力がないこの人の困難を担うべき人は誰なのか? 本人ですか? それとも家族ですか? という具合です。簡単に言うと、「私ではないですよね」ということです。
イエス様は、困難を担うべきなのは、神様に決まってるし、その神様はイエス様に担ってちょうだいと言われていると教えられます。そして、あなたにも担ってちょうだいと言われてるんじゃないのと問われているのだと思います。