2024年3月24日日曜日

2024年3月24日(日)棕梠の主日礼拝式

 「十字架への道」

ヨハネによる福音書18章1〜40節

最初に、今回の聖書の箇所が長い! びっくりした!


 「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」とイエスさまは言われました。

 イエス様の属しているのは神様の世界であり、そこではイエス様は神様の力に守られています。でもこの世はそうではありません。


 にも関わらずイエス様はこの世に来てくださった…


 つまりは神様の力に守られていない状態でもこの世に来てくださったわけです。

 イエス様は多くの病人を癒やし困難を抱えている人を救われました。それでも全てのイスラエル人に出会われたわけではありません。イエス様に会って救ってほしいと願いながらそれが叶うことがなかった人もたくさんいたでしょう。

 救われた人もいればそうでない人もおられました。神様の守りがある世界と、そうでない世界があるとしたら、イエス様の属しているのは前者だけれども、それでも後者の世界に来てくださるのです。

 多くの人々を救いながらもイエス様は絶えず救いがまだ届いていないところに思いをおいておられたのだと思うのです。

 私たちの現在の世界でも困難な中に置かれている人を救おうと手が差し伸べられていますが、届くところと届かないところがあります。 

2024年3月10日日曜日

2024年3月10日(日)受難節第4主日礼拝式

「香油を注がれた主」

ヨハネによる福音書12章1〜8節

 香油を売って貧しい人のために使うことと、イエス様にその香油を塗ることのどちらを選ぶのか。そもそもこのような問にしてしまうことが問題なのかもしれません。

 この物語はイエス様に香油を塗ることが推奨されているように読めます。でも、現に今貧しさにあえいでいる人の立場を想像するとそんなに簡単に答えを出すことはできません。貧しさにあえいでいない人が、ユダさんが間違っていると言うのもなにか違う気がするんです。

 同じ様に、この感じだとそろそろ殺されかねないなと感じているイエス様、そしてこのことから逃げるわけにはいかないと思われているイエス様の気持ちも思うと、マリアさんが香油を塗ったことを責めるのも違う気がします。

 施したければやればいいし、葬りの準備をするならすればいいのでは、香油は一つしかなかったかもしれませんが、先に売っぱらって現金化したとして、マリアさんが葬りのための香油を何してくれとんねんとユダさんの胸ぐらをつかんで凄んでいたとしたら、イエス様はマリアさんに「この人のするままにさせておきなさい。わたしの喜ぶことをしようとしたのだから。 施しのために香油は役に立つが、わたしの葬りのためならこの香油じゃなければならないことはない」と言われたのかもと想像したりします。

2024年3月3日日曜日

2024年3月3日(日)受難節第3主日礼拝式

 「受難の予告」

ヨハネによる福音書6章60〜71節

 「ひどい話」と書かれているのは、イエス様が「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」(6章56節)、「わたしを食べる」(57節)と言われたので、グロいしきしょいとなったのでしょうか。
 でも、グロい、きしょいは、キリスト教にとって大切だと思うんです。教会の礼拝堂には十字架が掲げられています。教会の屋根の上にも掲げられています。ネックレスに付けて首からぶら下げたりもします。幾何学的でおしゃれなようですが、十字架はそもそも人を釘で打ち付けて時間を掛けてじわじわと苦しめて殺す道具です。もしイエス様がギロチンで殺されていればギロチン台が教会の屋根に掲げられていたかもしれません。絞首刑で殺されていれば首吊りのロープをネックレス代わりに首からぶら下げることになっていたかもしれません。
 勝ち馬に乗る、という言葉あります。勝つ側に身をおいて得をしようとすることです。寄らば大樹の陰、という言葉は、頼りにするなら勢力がある側を選ぶということです。負け側についたり勢力がない側を頼りにするのは愚かなことです。だから実際の社会でも弱い人は弱いまま助けられず、勢力がないなら誰かに頼られる存在にはなれないと言われるのです。
 イエス様は十字架へと向かわれます。
 私たちはイエス様に頼りすがります。

2024年2月25日日曜日

2024年2月25日(日)受難節第2主日礼拝式

「メシアへの信仰」 

ヨハネによる福音書9章13〜41節

生まれた時から視力がない人と出会った弟子たちがイエス様に質問します。この人が視力がないのは、本人の罪の報いなのかそれとも両親の罪の報いですか、と。

イエス様はこの人が見えるように癒やされました。弟子の質問には、本人でも両親の罪の報いではないと答えられました。

9章13〜41節には癒やされたあとのなんやかんやが書かれていますが、私は9章2節の弟子たちの質問に核心があると受け止めました。罪の報いかどうかは原因を突き止めようとする質問であると同時に責任を持つ人が誰なのかを問うていると思います。

視力がないこの人の困難を担うべき人は誰なのか? 本人ですか? それとも家族ですか? という具合です。簡単に言うと、「私ではないですよね」ということです。

イエス様は、困難を担うべきなのは、神様に決まってるし、その神様はイエス様に担ってちょうだいと言われていると教えられます。そして、あなたにも担ってちょうだいと言われてるんじゃないのと問われているのだと思います。

2023年3月31日金曜日

駄目な自分を救ってくれる皆へ

  僕は自分のことを残念な人だと思う。謙虚だと言う人もいるかも知れないけど本当にそうなんだな。本当に自分は駄目なんだ。

 でもそんな駄目な自分を慕ってくれる神様みたいな人のおかげでまともな人間ぽく過ごせている。どんなに感謝してもしきれない。本当に本当に感謝してもしきれないのだ。


 そんな恩人の一人がね。

 悲しすぎるよね。  もう会えないなんて…


 でもありがとう。なんて言うか…


 また会えるまで絶対納得できない…

2022年6月5日日曜日

1年9か月13日

2020年8月23日(日)を最後に更新が止まった。
今日は2022年6月5日(日)…ちなみにペンテコステ。
実に1年9か月13日ぶり…

更新頻度が調子のバロメーターって書いたのにどんなけ調子悪いねんってことになるやん。

ちょっと言い訳したらフェイスブックとツイッターとインスタグラムを始めてそっちは更新してる。特にインスタグラムはそこそこ更新してる。

リターンライダーになったりと変化もある。

でも調子は悪いんよねえ。調子悪いと10年少し前の辛かったことが思い出されてしまうのよねえ。このしつこさはもう病気やねえ…まあ病気なんやけどね。

まあでも書けるときにはブログは更新したいなあ。

文章書くの好きやしね。

そしてまた更新は滞りそうな予感…


2020年8月23日日曜日

2020/08/02(sun)-22(sat)

◆週一ペースで書こうと思ってはいるんですがなかなか書けません。2週1か3週1位になりそうですかね。
◆聖霊降臨節10-12主日。特に16日()は15日()に指宿市の病院でクラスターがあったと報道された翌日で緊張感をもって礼拝をしました。
◆8月6日(木)◆広島原爆の日。9日(長崎原爆の日、15日(土)終戦記念日指宿では投下時刻にサイレンが流れます。とても大切な取り組みだと思います。覚え続けることが大切です。
◆恒例の関西帰省は見合わせました。春には帰りたいです。
◆クラスターが起こり鹿児島県で鹿児島市に次いで指宿市の陽性者が多くなった。
8月
15日(土)指宿市17-28例目(鹿児島県283-289, 291-295例目)
16日()指宿市29-51例目(鹿児島県298, 300-307, 309, 310, 312-323例目)
17日(月)指宿市52, 53例目(鹿児島県324, 326例目)
18日(火)指宿市54-57例目(鹿児島県330-333例目)
20日(木)指宿市58例目(鹿児島県340例目)
22日()指宿市59例名(鹿児島県341例目)
◆本読んだり、アルトを手放したり話題はあるんですが書く気力が…。