2024年4月15日月曜日

2024年4月14日(日)復活節第3主日礼拝式

「復活顕現(2)」

 ヨハネによる福音書21章1〜14節

 蘇ったイエス様の登場はヨハネによる福音書でこれで3回目。

 場所はガリラヤ湖。

 1回目と2回目はエルサレム、イエス様が殺されてしまったことで、自分たちにも危険が迫っていると閉じこもっていたところに蘇ったイエス様が登場。そのときにはすぐイエス様だと気づいていた。

 今回は、気づかない。ペトロさんは、この時は会いたくなかった、今の自分の姿を見られるのが嫌ではなかったのかと思う。エルサレムで蘇ったイエス様に出会って大喜びしたはずのペトロさんは、イエス様の意思を継いで歩み始めたのかと思いきや…

 ガリラヤに帰ってイエス様に出会う前の生活に戻っていた。最初にイエス様に出会った時、何もかも捨ててイエス様に従ったペトロさんは、その時捨てたものを再び拾っていた。こんな今の自分をイエス様に見せられるわけがないと思っていただろう。

 イエス様って、あえてこういうときをねらって会いに来られるイメージがある。人に見てほしいと思えるような自分ではなくて、こんな自分は誰にも見られたくないと思ってる時ほど、隣におられる。

 だから、今の私の隣にはイエス様がいてくださると思う。

2024年3月29日金曜日

2024年3月29日(金)園内研修、園長から(3)

 こどもは大人と同じ人権を持っています。 

 こどもが過度なストレスを感じ続けると脳が萎縮するそうです。

 良かれと思ってやってきたことが実は過度なストレスを与えていて、脳を萎縮させることになっていた可能性があると考えるとゾッとします。そのことが研究などでわかったなら、改める努力することは保育に携わる者にとって基本的な責任であり、怠るのであれば非難されるべきです。

 この緊張感を持ち続けなければなりません。

 こどもを傷つけ自己肯定感を下げていないだろうか、支配してはいないだろうか、

 こどもの利益を最優先に、このことを真剣に、ぶつかることがあっても限界まで真剣に求め続けるチームでありたいです。


 かなり端折っていますしがこんなことを話しました。

 2024年度も、こどもたちの利益を最善に、歩んでいきます。

2024年3月29日(金)園内研修、園長から(2)

  政府はこどもまんなか社会の実現をめざし、こども基本法を作成しこども家庭庁を設置しました。

 こどもまんなか社会といわれるようになったことは、2つのことが示されていると思います。

 一つは、

 こどもを社会のまんなかにすることは良い社会を実現する方法として有効だと世界の多くの国で認められていて実績もあがっている、と日本も認めざるを得なくなったということです。

 もう一つは、

 今まで日本ではこどもまんなか社会を目指してなかったということです。

 私は、今までの日本社会を名付けるならば、働くおじさん真ん中社会、と名付けます。とにかくおじさんがバリバリ働いて社会に利益をもたらすことに力を注ぎ、このおじさんが働くことに全精力を注げるために、「妻」が支える家でおじさんが絶対の権威を持つことが理想だとされていたと思います。経済が良くなれば社会も良くなると…。でもこれではうまくいかないと認めざるを得なくなったのです。こどもを経済活動の道具として優秀に育てようとすることではうまくいきません。

2024年3月29日(金)園内研修、園長から(1)

 私が園長を努めさせていただいている認定こども園の2024年度に向けての園内研修がありました。

 牧師になるために神学部で学んだ私は、現場での経験は園長としての経験しかありませんから普段は保育のことはほとんど物申すことはありません。

 ただ年度の初めに思いの丈を伝えさせていただいています。

 以下に話したことを紹介します。

 私たちスタッフが共通してもっていることは、こどもの利益を最優先に、です。これに対して、「そうは言っても…」などと言う人はこのチームから去るべきだと思います。もし私がそうなったなら辞めます。

 ただ、こどもの利益を最優先に、をどう具体的にするかの考え方はそれぞれ違いがあるでしょう。チームでやっていくには意見を受け止め理解し合うことに努めなければなりません。この時に重要なのは自分の経験値や思いだけに留まってはならないということです。保育は時代とともにあらたな知見が生まれます。心理学や脳科学の発達にも影響を受けますし、社会状況の変化によってかつての常識が通用しないこともあります。ですから常に学び自分の考えをアップデートし続けなければなりません。社会状況にも関心を向けるべきです。その上で考えを出し合い、どうすればこどもの利益を最優先にできるかを話し合い実践し追求します。

2024年3月24日日曜日

2024年3月24日(日)棕梠の主日礼拝式

 「十字架への道」

ヨハネによる福音書18章1〜40節

最初に、今回の聖書の箇所が長い! びっくりした!


 「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない」とイエスさまは言われました。

 イエス様の属しているのは神様の世界であり、そこではイエス様は神様の力に守られています。でもこの世はそうではありません。


 にも関わらずイエス様はこの世に来てくださった…


 つまりは神様の力に守られていない状態でもこの世に来てくださったわけです。

 イエス様は多くの病人を癒やし困難を抱えている人を救われました。それでも全てのイスラエル人に出会われたわけではありません。イエス様に会って救ってほしいと願いながらそれが叶うことがなかった人もたくさんいたでしょう。

 救われた人もいればそうでない人もおられました。神様の守りがある世界と、そうでない世界があるとしたら、イエス様の属しているのは前者だけれども、それでも後者の世界に来てくださるのです。

 多くの人々を救いながらもイエス様は絶えず救いがまだ届いていないところに思いをおいておられたのだと思うのです。

 私たちの現在の世界でも困難な中に置かれている人を救おうと手が差し伸べられていますが、届くところと届かないところがあります。 

2024年3月10日日曜日

2024年3月10日(日)受難節第4主日礼拝式

「香油を注がれた主」

ヨハネによる福音書12章1〜8節

 香油を売って貧しい人のために使うことと、イエス様にその香油を塗ることのどちらを選ぶのか。そもそもこのような問にしてしまうことが問題なのかもしれません。

 この物語はイエス様に香油を塗ることが推奨されているように読めます。でも、現に今貧しさにあえいでいる人の立場を想像するとそんなに簡単に答えを出すことはできません。貧しさにあえいでいない人が、ユダさんが間違っていると言うのもなにか違う気がするんです。

 同じ様に、この感じだとそろそろ殺されかねないなと感じているイエス様、そしてこのことから逃げるわけにはいかないと思われているイエス様の気持ちも思うと、マリアさんが香油を塗ったことを責めるのも違う気がします。

 施したければやればいいし、葬りの準備をするならすればいいのでは、香油は一つしかなかったかもしれませんが、先に売っぱらって現金化したとして、マリアさんが葬りのための香油を何してくれとんねんとユダさんの胸ぐらをつかんで凄んでいたとしたら、イエス様はマリアさんに「この人のするままにさせておきなさい。わたしの喜ぶことをしようとしたのだから。 施しのために香油は役に立つが、わたしの葬りのためならこの香油じゃなければならないことはない」と言われたのかもと想像したりします。

2024年3月3日日曜日

2024年3月3日(日)受難節第3主日礼拝式

 「受難の予告」

ヨハネによる福音書6章60〜71節

 「ひどい話」と書かれているのは、イエス様が「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」(6章56節)、「わたしを食べる」(57節)と言われたので、グロいしきしょいとなったのでしょうか。
 でも、グロい、きしょいは、キリスト教にとって大切だと思うんです。教会の礼拝堂には十字架が掲げられています。教会の屋根の上にも掲げられています。ネックレスに付けて首からぶら下げたりもします。幾何学的でおしゃれなようですが、十字架はそもそも人を釘で打ち付けて時間を掛けてじわじわと苦しめて殺す道具です。もしイエス様がギロチンで殺されていればギロチン台が教会の屋根に掲げられていたかもしれません。絞首刑で殺されていれば首吊りのロープをネックレス代わりに首からぶら下げることになっていたかもしれません。
 勝ち馬に乗る、という言葉あります。勝つ側に身をおいて得をしようとすることです。寄らば大樹の陰、という言葉は、頼りにするなら勢力がある側を選ぶということです。負け側についたり勢力がない側を頼りにするのは愚かなことです。だから実際の社会でも弱い人は弱いまま助けられず、勢力がないなら誰かに頼られる存在にはなれないと言われるのです。
 イエス様は十字架へと向かわれます。
 私たちはイエス様に頼りすがります。

2024年2月25日日曜日

2024年2月25日(日)受難節第2主日礼拝式

「メシアへの信仰」 

ヨハネによる福音書9章13〜41節

生まれた時から視力がない人と出会った弟子たちがイエス様に質問します。この人が視力がないのは、本人の罪の報いなのかそれとも両親の罪の報いですか、と。

イエス様はこの人が見えるように癒やされました。弟子の質問には、本人でも両親の罪の報いではないと答えられました。

9章13〜41節には癒やされたあとのなんやかんやが書かれていますが、私は9章2節の弟子たちの質問に核心があると受け止めました。罪が報いかどうかは原因を突き止めようとする質問であると同時に責任を持つ人が誰なのかを問うていると思います。

視力がないこの人の困難を担うべき人は誰なのか? 本人ですか? それとも家族ですか? という具合です。簡単に言うと、「私ではないですよね」ということです。

イエス様は、困難を担うべきなのは、神様に決まってるし、その神様はイエス様に担ってちょうだいと言われていると教えられます。そして、あなたにも担ってちょうだいと言われてるんじゃないのと問われているのだと思います。